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    9月9日(火)準備書面の要旨 金城重明氏の偽証濃厚 藤岡信勝先生意見書(大阪高裁提出資料) 

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      9月9日(火)準備書面の要旨 金城重明氏の偽証濃厚

      藤岡信勝先生意見書(大阪高裁提出資料)

      2008年09月19日(金)

      準備書面の要旨(口頭陳述) 平成20年9月9日

      平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
      (原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
      控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
      被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
        
        
      準備書面の要旨(口頭陳述)                   
      平成20年9月9日  
      大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  

                      控訴人ら訴訟代理人
                          弁護士  徳  永  信  一



      第1 宮平秀幸証言の信用性について    

      被控訴人らは、宮平秀幸の証言の信用性につき、細かく論難していますが、それらは、いずれも、この度、証拠提出した藤岡信勝拓殖大学教授の意見書(2)において仔細に検討されたものばかりであり、そこで明らかにされているように、宮平秀幸の証言が持つ信用性と証拠価値は揺るぎないものであります。
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      第2 現実の悪意の法理について    
      北方ジャーナル事件最高裁判決が示した「明白性」の基準の射程については、控訴人準備書面(1)の第2で述べたとおりであり、それは事前差止めに関するものであって、本件のような事後差止めに関するものではないことは明らかです。また被控訴人らは、「現実の悪意の法理」に言及していましたが、それはアメリカの判例法理であり、日本の最高裁は繰り返しこれを退けていることは、周知のとおりであり、その採るところではありません。    
       
      第3 住民の証言にみる軍の善き関与について 
        
      1 控訴人準備書面(2)の第1では、数多く残されている集団自決の生き残りの住民達の証言に表れた軍命を否定すべきエピソードを整理しています。
       宮城初枝の証言には、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」として手榴弾を渡されたエピソードがあります。原判決はこれをもって「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」としましたが、そのような評価がその後、初枝らと再開した内藤中尉や梅澤隊長が初枝らの「無事をなによりも喜んだ」ことと明らかに矛盾します。これに関し、被控訴人らは、梅澤隊長らが喜んだのは初枝らによる任務の遂行であり、自決命令とは矛盾しないと主張していますが、これもまた証言の前後の文脈を無視したものであります。初枝らは、集合地点である稲崎山に弾薬を運び終えた後、兵士達が誰もやってこないのに絶望して自決を図ろうとしますが果たせず、敵機の機銃掃射に追われながら谷川を彷徨っているところを島民に発見され、部隊が稲崎山に集合し、初枝らが自決したのではないかと心配して探していたことを聞かされ、急いで集合場所に戻り、そこで梅澤隊長らと再会したのでした。既に任務が遂行されたことを知っていた梅澤隊が初枝らを探していたのは、あくまでも初枝らの安否を心配してのことであり、再会して喜んだのは、初枝らの無事であったことは、「それにしても無事でなにより」の一言に表れています。控訴人梅澤が初枝を含む住民に自決を強いる命令を出していないことは明らかです。
        2 また、初枝と同じように「万一のときのため」として兵士から手榴弾を受け取った宮里育江の証言にも、軍命を否定すべき、「軍の善き関与」のことが含まれています。『座間味村史下巻』や『潮だまりの魚たち』に収められている育江の証言には、「女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料を持ってそこへ移って下さい。部隊長の命令です」との命令があったことが述べられています。梅澤隊長は、伝令を通じて、女性軍属5名に住民が避難している裏の山に移るよう、そして食料を「持てるだけ持って」移るように命令しており、そこからは育江ら女性軍属に対して避難住民らとともに生き延びることを求めた梅澤隊長の当時の意思を明確に読み取ることができます。  
          育江は、米軍が上陸してから数日後、重傷を負い死期の近いことを悟った長谷川少尉が部下の兵士らに対し、自らを殺すように命じるとともに、「この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい」と指示したことを証言しています。もし住民に対する自決命令が出ていたとしたら、長谷川少尉から育江らを保護して親元へ無事届けろという指示が出てくるはずがないのです。
          育江が証言している「食料携行命令」や「保護命令」とでもいうべき指示が、『沖縄ノート』に書かれている「部隊の行動を妨げないため、部隊に食料を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ」といった非情の命令と真っ向から矛盾することは明らかです。「万一のための」手榴弾交付は、そんな非情な自決命令などではなく、住民の安心と尊厳を守るためになされた兵士たちの人間的な行動であったと解されるべきなのです。これを自決命令の証拠だというのは命令のすり替えでしかありません。  
          
      第4 垣花武一の陳述書について 
      被控訴人らは当時、阿嘉島の住人だった垣花武一の陳述書を新たな証拠として提出しましたが、その内容は、『沖縄県史第10巻』や『座間味村史下巻』に収められている当人の証言や父親である垣花武栄や親戚の中村仁勇の証言と食い違っており、全く信用性に欠けるものです。
      例えば、阿嘉島の住民が、杉山という山の中に集まり、集団で玉砕しようとしたとき、日本兵が丘の上に機関銃を構え、住民に銃口を向けていたという下りがありますが、『座間味村史下巻』に収められた垣花武栄の証言によれば、防衛隊員の命令で、『米軍は撤退したから自決することはよせ』ということになったとあり、『沖縄県史第10巻』に収められた中村仁勇の証言によれば、そもそも杉山に住民が集まったのは、野田隊長の『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』との指示によるものであったとされています。日本兵の銃口は米軍の進攻が予想された谷間に向けられていたのであり、垣花武栄の証言にも中村仁勇の証言にも銃口が住民に向けられていたといった内容は含まれていません。
      また、垣花武一は陳述書において「慶良間列島の日本軍は、軍とともに住民を玉砕させる方針だったのだと思います」との意見を述べていますが、その理由として挙げられているのは、柴田通信隊長が打電した「軍も住民も全員玉砕する」との無線です。ところが、柴田通信隊長の話は、1974年に発刊された『沖縄県史第10巻』に収められた武一の証言にも出てきますが、そこでは、打電の内容は「阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦奮闘、悠久の大義に生く」となっており、住民の玉砕のことは全く出てきません。中村仁勇の証言に出てくる無線の内容も同じです。柴田通信隊長による打電は、「住民の玉砕」が日本軍の方針だったという推測をなりたたせるものではありません。陳述書は、なんとか自決命令を導き出そうと事実を脚色する被控訴人らの姿勢を浮き彫りにしています。 
        更に、垣花武一は、陳述書のなかで日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたといいます。 
      この石川郵便局長の話は、垣花武一の伝聞に過ぎません。そして『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しません。その内容の重大性に照らせば、余りにも不自然です。座間味島にきた垣花武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもないはずです。垣花武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、これまでの証言録のなかでは、一切触れられていません。そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったことを含め、石川郵便局長の話の伝聞に信用性がないことは明らかです。
       
      第5 本件訴訟の目的について  
        1 被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難しますが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版差止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかです。 
        また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難していますが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところです。例えば、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じであります。 
          そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感でありました。そのことは、また、代理人らも雑誌に寄稿した文章等において訴えてきたところでした。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件でした。   
          世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではありません。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済、そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていましたが、そうした政治目的を掲げていたことはよく知られています。  
          被控訴人らによる前記主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものであり、証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではありません。  
        2 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことです。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものでした。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものです。 
          そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものでしょうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えています。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」でしかありません。 
          それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならないと考えます。集団自決の歴史を正しく伝えていくことは、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにあると信じます。
      そして、そのことが本件訴訟の目的であります。
                                         以上

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      2008年9月19日 07時01分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) | 
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      金城重明氏の偽証濃厚

      http://www.worldtimes.co.jp/special2/oki_jiketu/main.html
       

      金城重明氏の偽証濃厚

      平成20年9月8日「世界日報」より

      金城氏の偽証濃厚に
      NHKの沖縄戦集団自決特集で兄が明言 「父に手を掛けた」

       
      NHKが八月二十九日放送した沖縄戦集団自決特集番組で、渡嘉敷島に住む金城重栄氏(81)が「(弟と二人で)僕たちは両親も弟もみんな、その場で殺してしまった」と明言した。この発言により、沖縄戦集団自決訴訟で昨年九月十日、福岡高裁那覇支部での所在尋問(出張法廷)で、「父とはぐれた」「父には手を掛けていない」と語った弟の金城重明・沖縄キリスト教短期大学名誉教授の発言が偽証である可能性が濃厚となった。「自ら手に掛けることが家族への愛」という、これまでの説明も説得力を失ったと言える。(編集委員・鴨野 守) 
       
      この番組はNHK沖縄が制作し、「九州沖縄スペシャル“集団自決”〜沖縄 
      渡嘉敷島 兄弟の告白〜」と題して二十九日午後八時から四十三分間、九州・沖縄で放送された。
       
      番組では当時十代だった金城兄弟のインタビューを核にして、当時の軍国主義教育、「天皇陛下万歳」の声、手榴弾を叩く音が、「兄弟にとって“自決命令”だった」という結論を導いたもの。だが、駐留していた日本軍が住民に自決命令を下したかどうかは不明としている。

       
      番組で注目すべきは、兄の重栄氏が集団自決に関して、より踏み込んだ発言をしている点だ。NHKは今年二月一日も「ドキュメント沖縄 “集団自決”63年目の告白〜家族を死に導いた兄弟の告白〜」を放送。この時ナレーターは、金城氏の家族が豪雨の中、住んでいた阿波連部落から集合を命じられた七キロ先の西山に向かう場面に触れ、「途中、父親とはぐれ、十八歳と十六歳の兄弟は幼い妹と弟の手を取って歩き続けました」と語る。

       
      さらに、集団自決の場面でも、ナレーターは「父親とはぐれていた二人にとって自ら手を下すことだけが家族への愛でした」との説明を付けている。

       
      ところが、二十九日の番組で重栄氏は明確に「僕たちは両親も弟もみんなその場で殺してしまって…」と語る。取材記者が、「どういうふうにしてですか」と問うと、「家族の首を絞めて殺したんですよ」と、その様子を話した。

       
      その後で番組ナレーターが「当時、重栄さんは六人家族。集団自決で家族四人を手に掛けた」と語り、父、母、九歳の妹、四歳の弟の名前を読み上げて、二月放送のものを事実上、訂正する形となっている。

       
      テレビカメラを前に、虚偽で「家族に手を掛けた」と語る人間などいない。兄のこの証言で、弟・重明氏の法廷証言の信憑性が一気に薄らいだ格好となる。

       
      昨年、那覇で行われた出張法廷で、弟の重明氏は「父親は離れて、おりません。
      ですから(家族に)手を下す人はいないわけです」「父は(自決現場となった)西山までたどり着いたと思うが、まだ未明でしたので、そこではぐれた。眼病で、夜(の移動)は非常に困難したためはぐれてしまった」として、父と離れ離れになったと強調。父を手に掛けたとする重明氏本人の証言が掲載された本の記述についても、「全然間違ったことを書いてある」と全面的に否定した。

       
      自ら家族に手を掛けることが「家族愛」と重明氏は説明してきたが、父親を手に掛けたことを近年否定してきたのは、父親まで手に掛けたことがあからさまになることへの後ろめたさからなのか。そこには心底「家族愛から手に掛けた」と断言できない心の葛藤があったのだろうか。

       
      法廷での証言は、裁判長が宣誓の趣旨を説明、証人が偽証をした場合罪に問われることもあると告げられ、宣誓書にもサインする。関係者は「刑事事件で偽証すれば、検察官が偽証罪で起訴するが、民事ではほとんど起訴はない。だが、証言の信憑性を低下させることは確かだろう」と語った。

       

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      2008年9月19日 06時18分 

       

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      2008年09月10日(水)

      9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回(結審)


      9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回目の口頭弁論があり、今回を持って結審しました。
      判決は10月31日(金)午後2時となりました。

       この日64席の傍聴券を得るために彼我200名程度の方が並んだと思います。当方よりの度重なる依頼に多くの同志の皆さんが応じてくださったおかげで、入廷するべき方全員、及び、いつもはお帰りになる事の多い方も多数入廷いただけました。皆様ご多忙のところまことにありがとうございました。まず、この場をお借りして御礼申し上げます。
       さて、裁判は書証の番号等の確認の後、被控訴人代理人の秋山弁護士、続いて当方徳永弁護士 より、それぞれ15分程度の口頭による陳述書の朗読がありました。
       事実関係に関して、秋山弁護士は、当方から提出している宮平秀幸氏の証言は信用する事はできないと、過去の宮平氏の証言等を引用しましたが、秋山弁護士の弁論のほとんどすべてはすでに当方が裁判所に説明済みの蒸し返しであり、今回、藤岡信勝先生の意見書(裁判所提出済み)でも明らかになっている事柄ばかりであると思われました。また、表現の自由と、名誉毀損の関係について、アメリカではこうだという話を秋山弁護士はしましたが、ただちに、続く弁論で、アメリカの法理は我が国ではとらず、日本の最高裁の基準はそうではないという点を、徳永弁護士に指摘されてしまいました。また、出版物がどれほど刷数を重ねても、真実相当性(その当時それが真実と思ったことは仕方がなかったので名誉毀損ではない)は、何十年経っても、最初の出版当初の真実相当性が維持されると言う、素人が聴いてもめちゃくちゃな論を秋山弁護士は述べ、相当苦しくなっていることが傍聴席からもよく分かりました。「裁判所におかれては、この裁判が個人の救済を装った政治的な目的を持っていることを斟酌していただきたい」という内容のことを、相当くどく、秋山弁護士は述べましたが、この点も、続く徳永弁護士の弁論で、薬害エイズ事件なども、個人の救済が政治の問題を摘出したのであって、政治的目的を持たなければ個人を救済できない裁判はいくらでもあり、秋山弁護士の言っていることはまったく意味がないとただちに論破されてしまいました。
       今回口頭での陳述書朗読の順番をどちらが先にするか、開廷まで決まっていなかったようですが、とっさの判断で、当方が後になったのは非常によい判断だったと思います。
       徳永弁護士は、提出した藤岡意見書で十分な説明が為されている事や、上記の点について述べると共に、梅澤隊長と、宮城初枝が再会を喜び合った邂逅の部分や、食料をできるだけもって集まりなさいと梅澤隊長が指示したこと等、文脈から自決命令を出していたら決してあり得ないことが誰にも分かる事柄を、秋山弁護士が曲解して、自決命令があったことは明らかと言っていることの矛盾を、傍聴席の誰にも分かる語り口で述べました。
       最後に徳永弁護士は、歴史の真実に迫ると言うことは、集団自決を隊長命令説で片付けるのではなく、圧倒的な米軍の存在への恐怖、在郷軍人、皇民化教育、家族愛、愛国心、戦陣訓、等々の複合的な要因から起こった悲劇である事の歴史の真実から目をそらしてはならない、自決命令があったから自決したなどと言う結論は沖縄県民の尊厳を汚すものであると格調高く弁論を終結しました。
       彼我とも、提出してある準備書面の朗読という形での弁論でしたが、実際は上記のように相当、その場で出された準備書面にはない陳述もあり、追って、速記録をもとに文書化して裁判所提出資料とする事になりました。
       平成17年8月4日に始めた当裁判ですが、思い返せば資料集め等の準備期間を含むと、すでに5年を経過しました。ご協力くださったすべての皆様に、重ねて御礼申し上げます。
       判決は10月31日ですが、予想を超えた早い判決の日取りは、裁判官がすでに判決の半ばを書き終えているのではないかとすら思えます。
       厳正な審理に基づく判決が出されるなら、当方が負けることはあり得ません。
       どうか皆様、判決のその日まで、裁判所を囲む世論そのものを当方に有利にする言論戦、情報戦、署名活動等、気を抜く事なくご協力いただけると幸いです。
       判決がどうであっても、必ず最高裁まで行きます。
       高裁で勝っても、負けても、最高裁での差し戻しと言うこともあり得ます。
       最後の最後まで、一切気を抜くことなく、頑張り続けましょう。

       準備書面については上記理由もあって、再校正中ですので、まず藤岡先生の意見書をこのホームページに掲載いたします。


      平成20年9月10日
      南木隆治

      2008年9月10日 07時41分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) | 
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      2009年04月24日(金) 08:44 by よこちゃん  コメント削除

      一審、二審共に「相当性の抗弁」が採用されたのでしょうか?素人の僕には解りませんが・・・。

      旧日本軍の文書における「土民」という言葉は「土着の住民」という意味で使われているのであり、侮蔑し、差別する言葉ではありません。

      ところが、大江健三郎氏のように

      『あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか』

      と記述すると、本来「かれら」は土着の住民であるから土民であるにも関わらず、大江氏が何らかの侮蔑、あるいは差別的意図を以って「土民」という言葉を用い、「若い将校たる自分」が「かれら」を侮蔑し、差別していたと暗に表現し、「若い将校たる自分」を貶めているとしか解釈できません。別の記述においては「若い将校たる自分」のことを「屠殺者」と表現しているので、ほぼ間違いないでしょう。

      要するに「土民」は大江氏が独自の解釈で意図的に「土着の住民という意味とは別」の・・・つまり侮蔑し、差別する言葉として用いたであろうことは想像に難くない訳です。

      その『沖縄ノート』を摘示した目的が公益を図ることにあるとは思えません。

      また、「沖縄集団自決」そのものが「軍による自決命令(関与ではない)」であったという証拠はなく、それは裁判所も認めている訳ですし、宮城晴美氏のカミングアウトの件もあるのですから、何とか頑張ってください!

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      藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2

      藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2
       

      藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2

       

      意 見 書(2)

        平成20年8月28日
                                         藤岡 信勝

      初めに、この意見書(2)に至るまでの経過をまとめておきます。
      私は、原告側弁護団の依頼を受け、7月28日付けの意見書を提出しました。その中で、座間味島在住の宮平秀幸(78歳)が今年の1月〜3月に、私(藤岡)や鴨野守、産経新聞、チャンネル桜などに対して行った一連の証言(以下、カギ括弧付きで「宮平証言」と略称する)を紹介しました。「宮平証言」のポイントは、(1)昭和20年3月25日夜、本部壕前で梅澤隊長と村の幹部が会見した際、梅澤が「自決するな」と制止し、自決するために集められた村民の解散を求めていたこと、(2)それを受けて村長が忠魂碑前で村民に解散を命令していたこと、の2点に要約されます。
      また、私は上記意見書の中で、沖縄タイムスの記者たちから指摘された、宮平の証言の信憑性を揺るがすと記者たちが考える二つの資料、すなわち、 愃卒嵬B嫉法焚軸)』(1989年)に掲載された宮平秀幸の母・貞子の証言、◆愍説新潮』1987年12月号に掲載された本田靖春のルポ「座間味島一九四五」、の両者について詳細な検討を加え、それらの文献に記載された内容と、「宮平証言」とが食い違う理由を分析しました。
       その分析によって、貞子証言は虚偽を含み、本田ルポは話の構成に錯誤があること、そうなった根本原因は、忠魂碑前で村長が解散命令を出していたことが村当局の厳重な箝口令の対象となり、村民が真実を自由に語れないという状況にあったためであることを明らかにしました。こうして、二つの文献の存在によっても「宮平証言」の信憑性は少しも損なわれないことを論証しました。
       その後、私の意見書が原告側代理人から貴裁判所に提出される前に、7月31日、被告側代理人から乙号証108〜110と、準備書面(2)が提出されました。乙号証の中には、宮平秀幸が出演した市販ビデオ「戦争を教えて下さい」(1992年、記録社制作)のDVDとその反訳、上記本田ルポ、宮城晴美の陳述書などが含まれていました。被告側の主張の骨子は、 愃卒嵬B嫉法戮猟膸匸攜澄↓◆愍説新潮』の本田ルポ、「戦争を教えて下さい」のビデオ、が今回の「宮平証言」と食い違うから「宮平証言」は信用できない、とするものでした。
      しかし、このうちの,鉢△砲弔い討蓮■祁遑横呼付けの私の意見書ですでに分析を終えておりました。私の意見書は被告側の論点をあらかじめ反論していたことになります。沖縄タイムスの記者たちが指摘した論点は、いずれ法廷に持ち込まれるであろうとの想定のもとに私は意見書をまとめたのですが、まさにその通りの展開となりました。
      そこで、この意見書(2)では、まず、最初の意見書でふれていない、の「戦争を教えて下さい」のビデオと「宮平証言」との食い違いの理由を分析し、次に宮城晴美の陳述書の誤りを示したあと、被告側準備書面(2)が提示している論点について全面的に批判・反論することとします。この部分がこの意見書(2)の主要な内容を構成します。最後に、証言者としての宮平秀幸の人物像について私見を述べ、結びとします。この意見書(2)は、7月28日の意見書の続編であるので、小見出しのナンバリング(「第一」、「第二」など)は通し番号としました。

      第四 記録社ビデオ証言との食い違いについての分析

      記録社が1992年に制作したビデオは「戦争を教えて下さい・沖縄編」というタイトルで、その中に渡嘉敷島の金城重明と座間味島の宮平秀幸が60分ずつ登場します。私はこのビデオの存在を、宮平秀幸と今年の1月26日に偶然出会ってから1週間後、秀幸本人から電話で教えられました。そこで早速市販のビデオを購入し、視聴しました。
      私は、2月10−12日、座間味島に裏付け調査に出かける予定を立てましたが、宮平秀幸が果たして証人として真実を語っているのか十分慎重に取り扱わなければならないと考えておりました。1月26日に出会ってから、彼の証言を私は直ちに百パーセント信じたわけではありません。人間の記憶には思い違いや記憶の変容ということがあります。それで、できるだけ彼の既存の証言記録を事前に検討しておこうとしました。そして、到底信用できない人物であると判断できるなら、裏付け調査を取りやめることも視野に入れていました。
      そうした姿勢で上記ビデオを検討した結果、1月26日に語ったこととの食い違いの理由は証言時の状況などによって十分合理的に説明できるものであると判断しました。もちろん、ビデオの中で秀幸は今回の「宮平証言」の重要なポイントには全くふれておりません。それは当然のことです。また、盛んに「皇民化教育」が集団自決の原因であると力説していましたが、それは解釈に属することで事実の証言とは位相を異にし、問題とする必要はないことでした。ちなみに、今でも秀幸は「皇民化教育」の影響についてはビデオ出演当時とあまり変わらない認識を持っているようですが、「皇民化教育がなくなったから、戦後は道徳が滅びた」とも述懐しています。
      今回、被告側がこのビデオを証拠として、反訳まで添えて提出したのは、ビデオで語られていることと食い違う「宮平証言」は虚偽であると主張するためです。反対に私は、ビデオの証言こそが真実を語れない制約のなかでなされたもので、虚偽を含み、この度の「宮平証言」は勇気をもって真実を語ったものであると主張します。以下、それを論証します。
      第一に、ビデオ収録が村の当局の監視下で行われた事情は、秀幸の8月7日付け陳述書に詳細に述べられています。村長の妻が母・貞子に集団自決の真実を語ることのないように圧力をかけ、それを受けて貞子と秀幸の妻の照子が付きっきりで撮影が行われた状況がつぶさにのべられています。私はそれに付け加えて、次のような事情もあったことを明らかにしておきたいと思います。
      記録社の撮影が行われたのは1992年の夏と推定されますが、その前年の1991年6月23日夕刻、大阪の読売テレビの取材陣が秀幸の家にやってきて、集団自決に関わる忠魂碑前の出来事についての証言を求めました。すでに日没後で、民宿を経営していた秀幸は泊まり客から細長い筒状の水中用懐中電灯を借りて忠魂碑前に取材陣を案内し、そこで電灯を付けながら証言しました。その中で、秀幸はうっかり、しゃべってはいけないことをテレビカメラに向かって話してしまいました。それは、忠魂碑前で村長が解散命令を出したという事実です。階段の上から二段目に立って村長が解散命令を出したことを、現地に立った秀幸は、話すつもりはなかったのに、つい口をすべらせて語ってしまったのです。
      この取材後、何日か経ってから、秀幸は田中登村長に激しく叱責されました。「あんなことをしゃべっちゃいかん」というわけです。なお、私は、放送を録画した古いビデオが秀幸の自宅の倉庫にあったのを送ってもらいチェックしました。「戦後なき死」というタイトルで放映された番組の中に、忠魂碑前での秀幸の短いコメントが入っていましたが、村長の解散命令の部分はカットされていました。テレビ取材陣が裏付け取材をする過程で村当局がカットすることを求めたためかもしれず、その経緯の詳細は不明です。
      いずれにせよ、そういうことがあった後ですから、再度の失敗は許されないことでした。記録社のビデオ出演で秀幸が極度に緊張して語っているのは、そういう重圧のなかで撮影が行われたからです。しかし、真実を隠して話したことによって、ビデオの内容は矛盾を含んだものになっています。その典型的な事例が、秀幸も陳述書で述べている、整備中隊の壕を回って自家の壕にたどり着くまで、秀幸の家族7人が、歩行が困難な祖父母をかかえながら一晩中村の中を徘徊したことになるという点です。
      忠魂碑前で村長の解散命令が出て、さてこれからどうしようかという時、秀幸の家族が結果として、自家に寄宿していた気心の知れた兵隊さんたちを頼って整備中隊を訪ねたことは前回の意見書で述べました。この時の家族の心理について付け加えて言えば、タテマエは貞子や千代の主張どおり「どうせ米兵に殺されるのだから、親しい日本の兵隊さんに殺してもらったほうがよい」ということだったとしても、ホンネとしては、訪ねていけば家族はそこで保護されるだろうという期待があったはずです。甘えの心理です。整備中隊に着いてみると、「ここは米軍が上陸し、戦場になるから逃げなさい」と諭され、どこまでも生き抜くようにと励まされ、ひと月は家族が食いつなげると思われる食料まで与えられました。
      日本兵と住民とのこのような心理的なつながりと愛情に満ちた人間関係を理解しなければ、家族がなぜ困難を押して整備中隊を訪ねたか、到底理解できるものではありません。しかし、記録社のビデオ作品は、村の箝口令のもとで撮影され、「日本軍悪玉説」に基づいて制作されたものですから、日本兵に「生きのびなさい」と励まされたとか、日本兵に食料をもらったなどの、軍に好意的な発言はできない状況でした。そこで、外形的にのみ秀幸の家族の行動が語られたため、忠魂碑の西方にあるシンジュの自家の壕に帰るのに、わざわざその反対の東方2.5キロメートルの距離にある整備中隊の壕を迂回して帰還したことになってしまうのです。これは絶対に説明のつかない非合理的な行動であり、記録社のビデオ作品が真実を語ったものではないことの動かぬ証拠です。被告側の、ビデオ証言と食い違うから「宮平証言」が虚偽であるとの主張は、以上のような事情に照らしてみれば完全に崩壊します。

      第五 宮城晴美陳述書の問題点

      宮城晴美は母・初枝の遺言を実行して『母の遺したもの』を2000年に出版し、初枝との約束をはたしました。同書の最大のポイントは、梅澤隊長が自決命令を出さなかったという事実の暴露にありました。ただし、そのポイントは、『座間味村史(下巻)』(1989年)に掲載された初枝の証言の中ですでに述べられていたものです。晴美はそのことを、村史という入手しにくい形ではなく、単行本という形で世に知らしめた功績があることになります。
      ところが、梅澤を原告とする訴訟が始まると、晴美は梅澤の無実を証言するのではなく、反対側の証人に立ち、さらには、前著と正反対の結論を導く目的で、「新版」を2008年に出版するにいたりました。晴美は、こうして母を裏切っただけでなく、今度は、叔父を誹謗する陳述書を提出しました。晴美にここまでさせる背後の勢力に対し、私は怒りを禁じ得ません。
      晴美の陳述書の問題点については、秀幸の陳述書で十分明らかになっています。特に、秀幸が軍の伝令ではなかったという発言についても、完璧な反論がなされています。それに付け加えて、2点ほど補足をしておきます。
      第一は、昭和20年3月25日夜の本部壕での村の幹部と梅澤隊長との会見に関する争点です。
      晴美は、「村長がいなかったことは母の話ではっきりしていますし、梅澤さんも村長がいたとは言っていません」とのべ、秀幸証言が虚偽である根拠の一つとしています。この点についての考察は、雑誌『正論』4月号の拙論「集団自決『解散命令』の深層」(甲B110号証)で述べたので繰り返しません。私の結論は、村長がそこにいた可能性が極めて高く、そのことは通信隊の長島義男の手記によっても裏付けられる、というものです。
      次いで晴美は、「この夜の助役と梅澤隊長とのやりとりについては、母から繰り返し話しを聞いていますが、母の異母弟である秀幸がその場にいたという話はまったくありませんでした。秀幸がその場にいたのなら、母は当然彼がいることはわかったはずですし、そのことを自分の手記に書くか、あるいは私に話すなどしたはずです。何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いています。これはまったく成り立たない議論です。
      秀幸がその場にいたことを初枝が知らなかったのは当り前です。秀幸の立ち位置は、初枝からは死角になっていたからです。その事情を、秀幸からの聞き取り調査をもとに、以下に再現します。
      3月25日夜、整備中隊にいた秀幸は、艦砲射撃が激しくなる中、兵隊たちに説得されて、いったん自家の壕に帰ることにしました。ひとりで高月山の頂上近くまで登ってきたところ、折しもものすごい艦砲射撃が始まり、前に進むことができません。そこで、高月山の稜線を南に進み、本部壕のわきに転がり込むようにしてたどり着いたのです。本部壕は外からそれと分からないような偽装がほどこされていました。入口は、琉球マツの枝で覆われています。見ると、そこに乾パンが一袋、引っかかっていました。秀幸は急に空腹を覚えて、その乾パンを食べ始めました。すると、壕の入口の方から、人の声が聞こえて来ます。何事かとマツの枝をそっと広げてみると、宮里盛秀助役が梅澤隊長に盛んに何かをお願いしているところでした。秀幸は、そっと近づいて聞き耳を立てました。入口には水に濡らした毛布が何枚も掛けられています。艦砲弾や火炎放射器で壕が火事にならないよう、防火のために掛けていたものでした。秀幸はその毛布の陰に身を潜めました。秀幸と梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていません。しかし、毛布がちょうど遮蔽物となって、秀幸の姿は、梅澤隊長からも盛秀助役からも見えません。こうして秀幸は、その場の話の一部始終を聞いてしまったのです。
      戦後2年ほど経ったころ、初枝を含む村の女子青年たちが畑仕事の合間に、戦争体験の自慢話のようなことをしていました。初枝は25日の夜、本部壕に行った時のことを話しました。そばにいた秀幸が、「姉さん、僕もその場にいたんだよ」と言いますと、初枝は驚いて信じられないような顔をしますので、秀幸はその場にどんなものがあったか、どんな植物が生えていたかなどを具体的に語りました。初枝は、「やっぱり、あんたもいたんだ」と納得していました。
      以上の通り、初枝は秀幸がその場にいたことを事後的に知っていました。初枝がそのことを晴美に話さなかったとして、そのことに特に理由があるのかどうかわかりません。しかし、初枝が知り得たすべてのことを晴美に話したという前提も成り立たないでしょう。
      晴美は、「何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」とも書いています。晴美の人間観察は極めて浅薄です。秀幸が口の堅い人物であることを私はこの間、実感しています。
      一例をあげます。1月26日の野外での会見の際、秀幸は、座間味の人が集団自決を推進したと言い、これは村の者は皆知っていることだが、その人物の子供が数人、今も那覇で重要な社会的地位にあるので名前は言えない、と言っていました。
      つい最近、秀幸はその実名を明かしました。昭和20年3月26日の早朝、第二中隊の壕から出てシンジュの壕に向かって歩き出した秀幸の家族は、軍服を着て刀を振り回す、兵隊らしき人物に出会いました。「玉砕命令が出ているのに、お前たちはまだ死ねないのか。殺してやるからこっちに来い」といって、家族を皆殺しにしようとします。この人物が、国民学校の教頭・山城安次郎であることを、秀幸はごく最近、私に伝えたのです。長い間隠していてすまなかったという趣旨の謝罪の言葉も添えられていました。
      このとき、祖父が山城教頭に口答えして、「先生、夕べ、自決するからといって忠魂碑の前に集まったら、軍が弾薬をくれないから自決はしない、解散だといわれてきたのに、また、先生はここで玉砕せよという。それは誰の命令ですか」と質問しました。すると、山城は、「玉砕命令は梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」と答えました。秀幸の家族の壕などに「軍の命令である」と言って住民を集めたのは、軍の名前を騙ったものであることを、秀幸はこのとき、はっきり知ったのです。
      この一事を見ても、秀幸が、晴美の観察とは異なって秘密を守ることのできる人物であることがわかります。しかし、梅澤隊長に無実の罪をなすりつけることと比較して、迷った末に山城の名前を公表するつもりになったものと思われます。
      晴美は、「彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いていますが、外部のジャーナリストや研究者に親切に対応することで人格的に非難されるとしたら、晴美の母・初枝は、その百倍も非難に値することは晴美もよく知っていることです。いずれにせよ、このような無意味な人格攻撃までしなければ秀幸証言の信憑性を否定できないところまで、被告は「宮平証言」によって追い詰められているのでしょう。
      第二は、「自決」という用語の問題です。
      晴美は、秀幸が「自決」ということばを使っていることについて、「「自決」は戦後使われるようになった用語で、あの夜のできごとを話す住民証言はすべて「玉砕」です」と述べています。晴美は、「自決」と「集団自決」とを混同しているようです。「集団自決」は確かに戦後使われるようになった用語のようですが、「自決」は当時も使われていました。盛秀の妹の宮平春子は、被告側が提出した陳述書の中で、「いさぎよく一緒に自決しましょう」と盛秀が言ったと証言して、「自決」の語を使っています。晴美は、ほかならぬ春子の新証言に接して自分の見解を変えたと述べていますが、「宮平証言」が信用できない理由に「自決」の語を使っていることをあげた晴美は、同じ「自決」の語を使った春子証言の信憑性をも否定しなければならないハメになりました。私は、3月7日、春子に面会しましたが、その際、確認のために、「自決」ということばを盛秀が本当に使ったかどうかを尋ねました。盛秀は子供に向かって「みんなで自決しましょうね」と言っていたとのことです。晴美の陳述書は、「自決」の語について一知半解の議論を振り回しているにすぎません。
      以上の通り、晴美の陳述書は、全く説得力のない、証拠価値ゼロの証言に過ぎません。

      第六 被告側準備書面(2)への批判
       
       被告側が7月31日付けで提出した準備書面(2)(以下、「被告書面」と略称する)では、原告側控訴理由書の「第4 宮平秀幸証言」について、7点の理由を挙げ、「まったく信用できない」としています。しかし、これら7点はことごとく成立しない理由であり、反対に「宮平証言」の信憑性をかえって裏付けるものとなっています。以下、被告書面が挙げた論点ごとに反論します。

       1 宮平秀幸の母の手記との食い違い
       被告書面は、秀幸の母・貞子の行動として、次のように述べています。
       「昭和20年3月25日は、70歳前後の夫の父母、23歳の長女、15歳の三男(秀幸)、5歳の娘、3歳の息子をひきつれて自分の壕に隠れており、夜になって米軍の艦砲射撃が激しくなり、前の壕の人が、「お米の配給を取りにくるように伝令が来たので、行こう」と合図に来たので、家族全員で壕を出て移動し、整備中隊の壕、御真影避難壕、第三中隊の壕などを逃げ回り、3月26日の夜明けに自分の壕に戻ったものである。この間、三男(秀幸)は祖父母の手を引くようにして歩いた。貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない。」
       これは被告による貞子証言の要約とみることができます。貞子証言については、7月28日付け意見書で詳細に分析しましたので、その成果を前提として、被告による上記引用部分を対象に、その記述の内在的矛盾(人間の行動として現実には絶対にあり得ないことが書かれていること)を明らかにします。
       
      (1)被告書面は、お米の配給を取りに行こうと前の壕の人から合図があって、「家族全員で壕を出」たと読み取っています。秀幸は、今年の3月10日、那覇の県庁記者クラブで記者会見し、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について」という3ページの文書を公表しましたが、その後、村史の貞子証言を読み、その間違いを指摘するため、3月14日、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」という文書を、「新しい歴史教科書をつくる会」を通じて公表しました。その「補足」文書の中で、秀幸も同じ読み取りをしており、貞子証言の文脈では、そう読むのは自然なことです。しかし、この行動こそ、当時の実情に即すると極めて不自然で、絶対にあり得ない行動なのであり、貞子証言が明白な虚偽を含んでいることの何よりの証拠です。
       村当局が備蓄していた米は、産業組合の壕に保管してありました。ジンジュの宮平家の壕と産業組合の壕との位置関係については、甲B110号証、229ページの航空写真にプロットした地図を参照していただきたい(宮平家の壕は、産業組合壕はΑ法G杁襪諒討鮗茲蠅帽圓ということは、シンジュにある宮平家の壕から産業組合の壕に行き、配給の米を受け取って、またシンジュの壕に戻ることを意味します。その目的のために「家族全員」で出かける必要はまったくありません。誰か大人が一人行けばよいのです。被告書面は、壕の中に家族7人がいたとしています。このうち、秀幸は実際は壕にはいなかったのですが、かりに秀幸が壕にいたと仮定しても、米をとりに行くべき人物は、貞子、千代、秀幸の誰か一人であるべきです。昌子と秀頼はまだ小さすぎて、この任務を課すには無理であり、70歳前後の祖父母は、単に高齢というだけでなく、二人とも足が悪く、容易に歩けない状態にありました。被告がこの度提出した本田靖春のルポにも、祖父の次良について「リュウマチを患っていて、両脚を前へ投げ出した形でしか坐れず、歩行に困難が伴っていた」(「座間味島一九四五」163ページ)と書いています。このような祖父母を含む、「家族全員」で弾雨の中を配給の米を取りにいかなければならない理由などあり得ません。被告書面は、こうした矛盾を含んでいることにすら気付かずに、貞子証言を絶対化しています。
       (2)それでは、米を取りに行った家族は、その後、どうしたのかと続きを読むと、産業組合の壕に行ったことが全く書かれていません。これは奇妙なことです。この矛盾にも、被告書面は全く気付いていません。実際は、秀幸が忠魂碑前で家族と再会したあと、家族から詳細に聞き取ったとおり、米は取りに行かなかったと考えられます。秀幸は、3月14日に発表した「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」の中で、この間の事情を次のように書いています。
       「夕方、村の役場の職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰ってこれなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。」
       実際は、千代が米をとりに行こうとしたのを、祖父が止めていたのです。だから、産業組合の壕に米をとりに行った者は宮平家にはいません。貞子証言に産業組合の壕に行ったことが書かれていないのは当然のことです。以上のことからだけでも、貞子証言と「宮平証言」のどちらが真実を語っているか、あまりにも明らかです。貞子証言には決定的な虚偽が含まれています。
       (3)被告書面は、「貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない」とのべています。貞子は壕が奥まっていたから伝令は来なかったとし、それを家族が忠魂碑前に行かなかったことの理由にしています。
       しかし、第一に、宮平家の壕が奥まっていたから伝令が来なかったというのは、極めて考えにくいことです。伝令の恵達は、60あまりもある各家の壕を回るのに急いでいたことは確かですが、だからといって特定の家を省略するとは考えられません。まして、伝令の内容は部落全員で自決しようという村当局からの重大な呼びかけですから、ますます考えにくいことです。
      第二に、「私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていた」(貞子証言)ということは、恵達たち伝令が秀幸の壕に来なかったとか、伝令が来たことに家族が気付かなかったとかいう言い訳にはならないことを指摘しなければなりません。シンジュの壕の配置について筆者(藤岡)が秀幸から聴取したところによれば、畑に沿った土手に宮平初枝(結婚後、宮城初枝)の家の壕があり、そのすぐ上の段、初枝の壕から2メートルの高さのところに秀幸の壕がつくられていました。初枝の壕から秀幸の壕まで、歩くと5〜6メートルの距離がありましたが、下の家の壕を訪ねた人の声は上の壕にも筒抜けに聞こえていましたし、その逆も成り立っていました。
       秀幸の壕は幅1.5メートル、奥行き3メートルほどの広さで、たいていは入口に貞子と千代が布団をかぶって寝ており、中間に祖父母、奥に小さな子供二人が置かれていました。恵達が来た時のことを秀幸が祖父から聞いたところによれば、恵達は秀幸の壕の入口までやってきました。壕の扉は、養蚕に用いる「まぶし」に木の枝を差した簡単なもので、恵達が外から扉をガタガタ揺すったので、内側から止めていたひもをはずし、祖父が顔を出して恵達と話をしました。
       貞子は忠魂碑前に行かなかったことの口実として、シンジュの壕の配置に言及しましたが、それは実態に照らすと全く説得力のないものであることが、以上の2つの理由から明らかになりました。
       (4)貞子の、忠魂碑前に行かなかったという証言は、8月14日付けで提出された秀幸の妹・昌子の陳述書によって、直接反証されています。昌子陳述書は次のように述べています。
       「暗くなってから、私たちが入っている防空壕の前へ大人二人が来て、一人はおじさん、もう一人は女の人でした。「マカー(忠魂碑のある地名)の前へきれいな着物を着て早く来なさい」と呼んでいました。おじいさんも、おばあさんも、私も弟も、きれいな着物を着けて、お母さん、お姉さんも着けて、マカーの前に行きました。マカーの前には人がいっぱい集まっていました。私と弟を、母と姉がおんぶして連れて行きました。おじいさんとおばあさんは杖をついて行きました。私たちはマカーの広場のそばの小さなみぞに座っていました。秀幸兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんに話をしていました。少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼びました。大人が「解散、解散」と言っておりました。」
       ここで、_搬欧旅茲謀僧瓩来たこと、家族が全員正装して出かけたこと、C藝家蠅料阿能┨と家族が落ち合ったこと、ぢ膺佑集まるように呼びかけられたあと、「解散、解散」と言っていたこと、が証言されていますが、このうちい和篠垢硫鮖玉仁瓩紡弍することは明らかで、ここで表現されている出来事の骨格は秀幸証言と完全に一致しています。
      (5)貞子の証言が、(1)(2)のような内在的矛盾を含み、伝令が来なかったから忠魂碑前に行かなかったという言い訳は壕の配置の実態から見て成り立たず、昌子の陳述書の証言とも食い違う虚偽を含んでいるのは、村史編集の過程で、集団自決が軍命によるものであったという余地を残すため、軍命によるという説を明確に否定することになる、「忠魂碑前での村長の解散命令」を何としても隠蔽しておかなければならなかった村当局の意向によるものだと考える他はありません。
       この点について、秀幸の陳述書では、「母はテープに証言を吹き込むとき、「そこはストップ」、「はい、戻って」などと繰り返し指示され、終わって帰ってきてから、「ああ、疲れ果てた」とこぼしていました。母の証言で私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令をかくすためであったと思われます」と述べています。被告書面によれば、村史を編集する際に、「宮平貞子から戦争体験を聴取したのは宮城晴美であった」とのことですから、晴美は村当局の意向を受けて貞子の証言を操作したのかもしれないという疑いを生じるところであり、この点からも晴美陳述書が信憑性を失うのは明らかです。
       (6)以上のような虚偽の内容を含む貞子証言を根拠に、本部壕で梅澤隊長と村の幹部の話を聞いたとする「宮平証言」を否定することはできません。
       

      2008年9月10日 07時37分 

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      藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2

      藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2        藤岡 信勝     
                    

       藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2             
                    

       2 宮平秀幸のビデオ証言との食い違い
       記録社制作の「戦争を教えて下さい・沖縄編」(1992年)に出演した宮平秀幸の証言について、被告書面は、次のように述べています。
       「このビデオにおいて、宮平秀幸は、昭和20年3月23日の晩から家族7名(祖父母、母、姉、妹、弟、自分)で自分たちの壕に入って、24日、25日も過ごし、25日午後8時半か、9時頃になり、忠魂碑前で自決するから集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中砲火を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、整備中隊の壕の前、第二中隊の壕の前を経由し、夜明けに自分たちの壕にたどりついたと話している。」
      「忠魂碑前で自決するから忠魂碑前に集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったとのビデオ証言は母貞子の手記に反し信用できないものであるが、宮平秀幸が3月25日の夜に宮里助役らが梅澤隊長に面会した際に本部伝令として隊長の傍にいたとの甲B111〜113の記載や、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で演説したとの甲B111などの記載は、秀幸のビデオ証言と相違し、いずれも虚偽であることが明らかである。」
       この議論が成立しないことを以下に述べます。

       (1)宮平秀幸の8月7日付け陳述書は、―乎勅決の真相を語ることについて村人に厳重な口止めをしていた田中登村長の夫人が、撮影の前にわざわざ貞子に秀幸が真相を語らないよう口止めをしていたこと、△修譴鮗けて貞子は家中の電気を消し、秀幸がうっかり本当のことを語ることがないよう、貞子と秀幸の妻・照子が撮影に立ち会い、秀幸の発言をチェックしていたこと、秀幸自身もかつて、田中村長から「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていたこと、い海Δ靴臣罎任了1討任△辰燭燭瓠大変緊張し、苦しい思いの撮影であったこと、を証言しています。
       これに付け加えて、イ修料闇、読売テレビの取材の際、忠魂碑前でうっかり村長の解散命令をテレビカメラの前で話してしまったため、田中村長から厳しくとがめられたことがあった、という事情を考慮すれば、ビデオ取材が到底本当の体験を語ることのできる状態で行われたものではなく、従ってその内容を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことは明白です。
       (2)こうした条件のもとで撮影されたビデオであるために、極めて不自然な箇所や、経験則上あり得ない内在的矛盾がビデオ作品には生じています。
       その一つは、「3月23日の晩から壕に入って、24日、25日も過ごして」と、さらりと述べているところに現れています。米軍の空襲は23日から始まっており、軍の伝令役をしていた秀幸は、いろいろな経験をこの間にしているはずですが、23日から25日の夜まで、自家の壕の中にじっと隠れていて、何も語ることがなかったかのように描かれていることは極めて不自然で、ほとんどあり得ない話であると言えます。秀幸は上記の発言についての背景を、「本部壕で梅澤隊長が「死んではいけない」と自決を止め、それを受けて村長が忠魂碑前に集まった村民を解散させた現場を私は見ていたのに、それをビデオの取材では話すことができなかったため、誤魔化した」と述べています。
       もう一つは、家族が、足の悪い祖父母を連れて、忠魂碑前から、自家の壕の反対側の遠方にある整備中隊の壕に行き、また戻って、第二中隊の壕を経て、シンジュの自家の壕に帰ったという、その深夜の徘徊の意味が全く分からなくなっているという点です。日本軍の兵士と秀幸の家族との人間的な交流や、兵隊さんに「死んではいけない」と諭されたことなどを語ることができなかったため、家族の立ち回り先を外形的にのみ言及したので、人間の行動としてあり得ない不合理な話ができあがってしまったと説明できるものです。
       このことからも、真実を語れなかったビデオの証言と食い違うことを根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことが明らかです。
      (3)ただし、上記のような厳重な監視体制のもとで撮影されたビデオであるにもかかわらず、被告書面も指摘するように、ビデオには秀幸の「各自の壕で自決せよということになり」という証言が残ってしまいました。これは村長の解散命令のあと、上記のような受け止め方をして忠魂碑前を去っていった人がいた(例えば、知念久次郎。甲B110,233ページ)というあらわれであり、村長の解散命令を前提としているという点で、解散命令の片鱗が表現されたものにほかならず、上手の手から水が漏れたような状況になっています。

       3 本田靖春に対する宮平秀幸の話との食い違い
       被告書面は、本田靖春著「座間味島一九四五」(『小説新潮』1987年12月号所収)に関して、次のように書いています。
       「これによると、宮平秀幸は、昭和20年3月25日の夜、祖父母、母、姉、妹、弟、とともに7名で宮平家の壕にいたもので、そこに「午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように」との命令が伝えられ、家族7名で時間をかけていろいろと話し合った末、午後零時ころ上記7名が忠魂碑の前についたが、物凄い艦砲射撃が始まり、その場から逃げ出し、その夜から26日にかけて島内の各所で集団自決が次々に起きたと話している。」
       被告書面は、本田ルポを上記のように要約し、それを根拠に、本部前での梅澤隊長と村幹部との面会の際に隊長の傍にいなかったこと、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で告げたことを秀幸は聞いていないこと、が明らかであると主張しています。しかし、この主張は成り立ちません。
       (1)7月28日付けの私の意見書で詳細に分析したとおり、ゝ槓申┨は自家の壕に恵達らの伝令が来た時、そこに居合わせたわけではないが、家族から聞いた話をもとにビビッドに語ったため、本田がてっきり秀幸がその場に居合わせたかのように錯覚したこと、忠魂碑前で村長の解散命令があったあと、その後どうするかを家族で相談したことが、伝令が来た後の家族の壕での話し合いに置き換わってしまったこと、K榲弔楼豌鵑りの取材であったため、秀幸の話を十分に確認することが出来なかったこと、じ狭討鮟颪い燭△函⊇┨のチェックを求めるなどの措置もとられなかったこと、イ海了点では秀幸は村長の解散命令を語ることが出来なかったこと、Π幣紊里茲Δ覆笋爐鯑世覆そ事情により、本田の話の構成に混乱が生じたこと、を解明しました。従って、本田ルポの存在を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできません。
       (2)被告書面は、『小説新潮』の次号(1988年1月号)の記事で、本田が宮城初枝や梅澤隊長の話を記載しているのだから、「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と指摘しています。しかし、被告には、本田の取材日程の前後関係について、その認識に混乱があります。
       『小説新潮』の1988年1月号の記事「第一戦隊長の証言」には、1987年10月下旬に、本田が座間味・阿嘉両島を「再訪した」と書かれており(291ページ)、「実をいうと、このたびの座間味島再訪の主たる目的の一つは、初枝さんに会って「集団自決命令」をめぐる証言を得るところにあった。「高月」の宮平秀幸さんは彼女の弟である。そこで秀幸さんを通じて初枝さんにインタビューを申し込んだのだが、「戦争の話だったらしません」と拒否された」(303ページ)と述べています。
       ここからわかるとおり、本田が秀幸から集団自決の話を聞かされたのは最初の訪問時であり、再訪した時に、秀幸を介して初枝に取材を申し込んだ本田は、取材を断られているのです。本田は肉と魚介類の冷凍物を販売する初枝の店まで直接訪ねますが、やはり断りの言葉は同じでした。ところが、初枝との会見は、本田が島を離れる最後の日に急遽実現するのです。本田はそのいきさつを次のように書いています。
       「それから中一日を置いた座間味島を離れる日、「高月」の食堂で朝食を摂っていると、思いもかけず初枝さんから電話が入った。店の筋向かいにある喫茶店で午前十時に会ってくれるという。」(303ページ)
       こうして、昭和20年3月25日の夜、梅澤隊長が村の幹部に弾薬の提供を断った事実を、初枝は本田に初めて語ったのです。このように本田の取材日程を整理すれば、本田が秀幸から集団自決の話を初めて聞かされた時には、本田は本部壕での梅澤隊長と村の幹部の会見に関する初枝証言についてはまだ何も知らなかったことがわかります。従って、本田と「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と被告が主張するのは全くの的外れです。
       宮平秀幸にこの点の事情を確かめたところ、実は秀幸は本田に、梅澤隊長が村の幹部と会った時、自決用の武器弾薬の提供を断っていたことをそれとなくほのめかしていたとのことです。しかし、当時、秀幸は村営の連絡船の機関長であり、身分は役場の職員(地方公務員)でしたから、役場の方針に反して自分の口から真実を話せば職を失う危険性がありました。本田が座間味島を離れる日の前夜、秀幸は初枝に電話して、本田に会って証言するよう説得していました。秀幸は自営業の初枝のほうが証言しやすいと思っていたのです。こうして本田は初枝に喫茶店で会うことができました。
       被告書面は、援護法の適用を受けていた村がどれほど厳しい箝口令のもとにあったかを全く無視して脳天気な議論を展開し、それを前提に「宮平証言」の信憑性を否定しようとしているのですが、そこには二重の欺瞞が隠されているというべきです。いずれにせよ、重大な真実の一端を世間に知らしめた画期的な文献である本田ルポの背景には、本田の取材に対する秀幸の誘導があったことがこれでわかります。

       4 宮平春子証言などとの食い違い
       (1)被告書面は、「甲B111などには、秀幸の話として、3月25日午後11時頃、野村村長が忠魂碑前で、村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族とともに聞いたと記載されているが、そのようなことがあったとの証言は、これまで住民の誰からも一切出ていない」という宮城晴美の陳述書を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定しています。
       しかし、私が『正論』4月号の拙論などで触れているように、|藝家蠢阿暴犬瓩蕕譴燭里蓮△曚箸鵑匹年寄りと子供で、証言者となるべき年寄りは死に絶え、子供は小さすぎて事態の意味がわからなかったこと、■僑或涌幣紊凌佑産業組合の壕で集団自決を遂げているが、この中には忠魂碑前にいた人々が多数含まれていること、B偲局による厳しい箝口令が存在し、秀幸自身、勇気をもって語り出しのはごく最近であること、い修發修眄家は、村当局の意向を受けて、真実を覆い隠すことに何らかの形で関わっていたのではないかと思われること、などの事情から十分に説明がつくことです。
       (2)被告書面は、「宮平春子の証言によれば、3月25日の夜、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に忠魂碑に向かったが、数メートル前に照明弾が落下し、前に進むことができず、来た道を引き返したところ、村長と収入役の一家が忠魂碑方向に向かって歩いて来るのに遭遇し、忠魂碑前にいくことをやめ、全員産業組合の壕に向かって歩いたものである」と述べ、「すなわち、村長は忠魂碑前に行っていないことが明らかであり、甲111などに記載された秀幸の話は虚偽であることが明らかである」としています。
       しかし、村長も助役も収入役も、要するに村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという春子の証言こそ、社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話です。村の三役は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人です。自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動はあり得ないことです。照明弾が落ちたことは理由になりません。まして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物でした。どんな危険を冒しても、忠魂碑前に行き、自らの責任を果たしたはずです。春子の証言は、兄の人間性を限りなくおとしめるものであることに気付くべきです。秀幸は、忠魂碑前に村の三役の家族が来ていたことを目撃していますが、それは村の指導者として当然のことです。晴美の『母の遺したもの』は初枝証言を世に知らしめた功績がある反面、村当局に都合のよいつくり話が含まれた作品であることに留意しなければなりません。

       5 宮城初枝の証言との食い違い
       (1)3月25日の夜、本部壕に梅澤隊長を訪ねた村の幹部の中に村長がいなかったという初枝証言を引いて、その場に村長がいたとする「宮平証言」は虚偽である、と被告書面は主張しています。これについては、私は『正論』4月号掲載の拙論(甲B110)ですでに検証しました。通信隊の長島義男の手記に、「国民学校校長と村の三役が青年有志二、三名と連れだって本部に来た」という一節があることから、村長はその場に来ていた可能性が高いと私は判断します。従って、この点に関して初枝の証言は虚偽を含み、秀幸の証言が正しいと考えます。
       (2)秀幸は、本部壕に村の三役が来ていたことを、今回に限らず、以前から証言していました。。横娃娃映6月28日付け毎日新聞「びんご版」に、清水凡平は、「本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた」という秀幸の証言を書いています。∪貊ぢ膤悗悩匈下匆餝悗鮴豺兇垢訛臾雕淳ゼミナールの学生8人は、2003年9月、座間味島で夏合宿し、宮平秀幸の案内で集団自決の調査を行いました。その報告書が同年10月29日付けで『ゼミナール報告書シリーズ(1)2003夏・ちゅら海の語るもの〜宮平秀幸氏と歩く座間味島』と題して発行されました。その中で、次のように、2箇所にわたって3月25日夜の本部壕前の出来事についての秀幸の証言が記録されています。

       <17ページ>
      3つの展望台から眺める座間味
       〜宮平さんの視点を感じ取る〜
      2003/09/08 晴れ 11:00〜13:30くらい ポイントをバスでめぐる(参加者8名)
      【宮平さん−当時15歳】
      梅沢部隊長(注1)と行動を共にしていた。
      ●集団自決の相談(3月25日の夜)
       村長−野村正次郎
       助役−宮里盛秀、
       収入役−宮平正次郎
      以上の三役(注2)が部隊長に集団自決の相談に来る(注3)。
      部隊長「村長、助役。何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族、一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
      三人は壕を追い出された。
      <22ページ> 
      歴史年表からは見えなかった、もう一つの歴史
       〜座間味・日本の歴史と宮平秀幸さんの自分史との比較〜
      【宮平秀幸さん−当時15歳】
      梅沢部隊長と行動を共にしていた。
      ●3月25日の夜<集団自決の相談>
       村長−野村正次郎
       助役−宮里盛秀、
       収入役−宮平正次郎
      以上の3人が部隊長に集団自決の相談にくる。この部隊長の側に宮平さんはいたといいます。
      部隊長「村長、助役、何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
      3人は壕を追い出された。

       
       上記で(注)が施されているところがありますが、その注の記述は、ほとんどが宮城晴美『母の遺したもの』(2000年、高文研)からの引用からなっています。晴美の著書では、村長はいなかったことになっているのですが、秀幸は、村の「三役」がいたことを学生たちに語っています。注目すべきことは、清水凡平と専修大学の学生に対する秀幸の証言は、晴美の著書が出版されたあとであるにもかかわらず、それに一切影響されておらず、終始一貫していることです。それが秀幸が直接経験した事実だったからです。
      (3)そもそも、部隊長に集団自決用の弾薬をもらいに行くというのに、その場に村長がいないということは極めて不自然です。村長がいなかったとしたら、その時間、村長はどこで何をしていたのでしょうか。何か村長が来ることのできない、よんどころない事情でもあったのでしょうか。村長がいないことについて、今まで全く何の説明も与えられていなかったことは奇妙です。村長の存在を消去することは、忠魂碑前での村長の解散命令を隠すための一環であると一応考えられますが、今のところ、それ以上の即断は避けたいと思います。
      (4)被告書面は、当夜の梅澤隊長と助役とのやりとりの内容について、初枝が聞いたことと秀幸が聞いたこととが食い違っているとして、「宮平証言」に信憑性のない根拠としています。しかし、前掲『正論』4月号に書いたとおり、30分も梅澤が何も語らず考え込んでいたかのような初枝の記述は明らかに不自然です。実際は、たくさんの言葉を費やして梅澤は村の幹部を説得したに違いなく、その点でも宮平証言のほうにはるかにリアリティーがあります。
       

      (5)被告書面はまた、梅澤隊長の陳述書に書かれた内容と宮平証言との間にも相違があることを指摘しています。それはそのとおりですが、前掲『正論』4月号で考証したとおり、村長がいなかったという点については、梅澤は初枝に教示・誘導された可能性が高いと私は見ています。あとで得た知識が、自ら体験した事として定着してしまうという現象はありふれたことです。
       なお、前掲『正論』の拙論では、秀幸が証言した梅澤の発言のうち、「天皇陛下の赤子」発言については、梅澤は自分の発想ではないとコメントしたことを紹介しましたが、再度秀幸にぶつけたところ、梅澤は確かに「天皇陛下の赤子」発言をしたのであり、それを梅澤はすっかり忘れているのだろう、とのことです。

       6 伝令ではなかった
       宮平秀幸が軍の伝令であったことについては、宮平秀幸の陳述書、中村尚弘の陳述書、梅澤と関根清の現認証明書で完全に論証されています。

       7 宮平秀幸の信用性
       この項で被告書面は、1〜6の理由を総括して、宮平秀幸の新証言が信用できないとしていますが、以上見てきたとおり、結論は正反対で、被告書面の議論はどれ一つとして成り立たない謬論であることが証明されました。
       被告書面は、最後に次のように書いています。
       「なお、宮平秀幸は、昭和61年頃、宮城晴美に対し「昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で村長から、隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した」と述べたが、当時宮城晴美が宮平貞子をはじめとする何人もの戦争体験者に聞いてみたが、秀幸の話を認める人は誰一人いなかった(乙110宮城晴美陳述書1〜2ページ)。秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っている。」
       乙110では、晴美は「昭和63年1月頃」と書いているので、上記被告書面に「昭和61年頃」とあるのは誤りです。それは別にしても、被告書面の論旨は、今一つ不明確です。被告は何を問題にしているのでしょうか。それが明示されていないので、当方で推測するしかありません。
        「隊長が来たら玉砕する」という部分が間違いだというのかも知れません。しかし、晴美の母である宮城初枝は、『家の光』昭和38年4月号に書いた手記の中で、「玉砕は、部隊長と村長の到着を待って、決行されることになっていたが」と書いています。初枝がそのことを否定するはずがありません。
       ◆ 崔藝家蠢阿蚤篠垢ら」秀幸が「言われた」、という意味に解釈した上で、それは間違いだというのでしょうか。それならば、その通りです。秀幸は、村長が解散命令する場にいたのであって、それ以前の段階で忠魂碑前にいた訳ではないからです。もし秀幸が晴美にそう言ったとすれば、他の人から聞いた話を秀幸は自分の言葉で再構成して語ったのでしょう。
        「解散」の部分が村長の「解散命令」を指すとして、それが間違いであるというのでしょうか。それならば、それは今回の争点そのものです。
       晴美は問題の焦点を示すことなく、曖昧な記述をして漠然と秀幸の発言が信用するに足りないものであるという印象を広めようとしているようですが、非論理的な文章です。被告側代理人も晴美陳述書の論旨がよくつかめず、最後の付けたりの形で扱ったのかも知れませんが、そうだとしたら、「秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っています」と締めくくっているのは不誠実です。被告側準備書面を書いた被告代理人も、何と何が「大きく食い違」うのか、そのポイントを示さないままに「宮平証言」を論難しているからです。

       

      第七 証言者としての宮平秀幸の人物像

      最後に、被告書面末尾の「7 宮平秀幸の信用性」という論点にもかかわって、「宮平証言」の位置づけと、証言者としての宮平秀幸の人物像について、私見を述べておきます。
      今回、被告側が「宮平証言」を否定するために持ち出した3つの材料は、次のように整理できる内容をもっています。「宮平証言」と対比して一覧表にし、それぞれについて、被告の評価と私の評価を対照させてみます。

                       忠魂碑前に    村長の解散命令   被告の   藤岡の
                       行ったか?    はあったか?      評価    評価  
      村史の貞子証言1988    NO        言及せず        ○     X
      本田靖春ルポ  1986    YES       言及せず        X     X
      記録社ビデオ  1992    YES       言及せず        X     X
         「秀幸証言」   2008    YES       YES           X     ○


       被告側準備書面(2)では、貞子証言だけが正しく、あとは「忠魂碑前に秀幸の家族が行った」という証言に関して、すべて誤りであるという立場をとっています。しかし、すでに述べたとおり、これは極めて脆弱な議論で、維持することの不可能なものです。貞子証言は、すでに私が前回の意見書で分析したとおりの重大な矛盾を抱えているだけでなく、当時6歳の宮平昌子の8月14日付け陳述書によって完全に反証されています。
      なぜ、このようなことになったのでしょうか。それは援護法の適用を受けるため、村ぐるみで真実を隠蔽する必要があったからです。秀幸によれば、村史の自分の証言について不自然な編集がされていることへの不満は、他の証言者、長田一彦も漏らしていたとのことです。そもそも、誰が見ても重要な証言者であるはずの宮平秀幸を村史の証言者から外していることに村当局の作為があります。
      座間味島の戦後史は、真実を語る住民の受難の歴史でした。援護法の適用を受けるため、村の長老の強要によって心ならずもウソの証言をさせられた宮城初枝は、長い間良心の呵責に苦しみぬきました。盛秀の弟の宮村幸延は、梅澤の無実を証明する証文を書いたばかりに、遺族会の会長の職をはずされました。晴美自身、「座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった」(沖縄タイムス、1995年6月23日付け)と書いています。
      さらに晴美は、母の初枝が、晩年、病状が進んで、「家族の呼びかけにさえ応じなくなったというのに、時折、「XXさんがドアの前にいるので帰ってもらいなさい」とうわ言をいうようになりました。「XXさん」とは母の“新たな証言”に怒り、母を厳しく追い込んだ人です。その人が戸口に来ているわけはなく、死を目前にしてまでなお“戦争”にまとわりつかれる母が私にはあわれでなりませんでした」と書いています(『母の遺したもの』2000年、279ページ)。その晴美が、今度は真実を覆い隠す抑圧者の側に回っていることになります。
       ここで、宮平秀幸の記憶力について述べておきます。秀幸が特異な記憶力の持ち主であることは間違いありません。私が体験したエピソードを紹介します。先日、那覇のホテルのロビーで、私は秀幸とともにある人を待つために長い時間待機していたことがあります。ちょうど向かい側のソファーに、初老のご婦人の二人連れが座っておりました。秀幸は声をかけて、「お二人さんは、20年ほど前、座間味に来たことがありますね」と話しかけたのです。二人はびっくりして、確かに1回だけ座間味島に渡ったことがあると言いました。秀幸は、「ボクは連絡船の機関長だった。あなた方は船に二人連れで座っていた。ボクはお顔を覚えていましたよ」と言いました。
      たった一回出会っただけの人でも顔を覚えてしまうというのは驚異的な記憶力です。特に、秀幸の映像的な記憶力は標準的な人々のそれを遙かに超えています。比喩的に言えば、秀幸の頭の中には、何百万枚という映像がストックされていて、きっかけがあれば活性化するのだろうと思われます。この間、私が接した秀幸の証言は極めて一貫しており、全く破綻がありません。宮平秀幸は、今後座間味島における集団自決の真相を究明する上で、かけがえのない人物と言えます。
      しかし、宮平秀幸は、この度の証言をしたことで、村社会の中ですさまじい圧力にさらされています。座間味島における厳しい状況については、『WiLL』5月号掲載の藤岡信勝・鴨野守「沖縄タイムスの『不都合な真実』」に書きました。その末尾に、今後、秀幸に対して加えられると考えられる攻撃の類型として、
      (1) 宮平の証言内容に対する攻撃――ゝ槓燭硫甬遒両攜世箸量圭發鬚弔もの、宮平の他の家族の証言との矛盾をつくもの、B召僚嗣韻両攜世箸量圭發鬚弔もの
      (2) 宮平への個人攻撃
      (3) 宮平の家族や家業への圧力
      の3つを指摘しておきましたが、そのすべてが今や盛大に始まっています。宮平の次世代の家族からは、ペンションの営業に差し障ることを心配して、証言をやめてほしいと懇願されています。しかし、秀幸は妻・照子と毎日のように話し合い、「本当は村の人にとって命の恩人である梅澤さんを、悪者にするわけにはいかない」と、勇気を奮い起こして証言を続けています。秀幸は自分の枕元にノートを置いて、当時のことを思い出す度に忘れないようにメモをとっています。1月26日の初対面の日に、秀幸から彼の証言を社会に公表する役目を指名された形になった私は、村の厳しい事情から法廷に出ることのできない秀幸の証言を、忠実に、客観的に伝え、必要な批判的検討を加えつつ、真実に到達したいと考えております。             
      (以上)

      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

      2008年9月10日 07時31分 |


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